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Channel: どうする、利根川? どうなる、利根川? どうする、私たち? Ⅱ
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利根川下流部・視察(2)

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 利根川河口堰・常陸川水門(の魚道)を見学した後、利根川左岸を上流にさかのぼっていきました。途中、常陸川と利根川をつなぐ閘門をいくつか見ましたが、印象深かったのは、横利根川合流点の閘門です。
 閘門というのは、河川を舟運利用する際に、両河川の水位差がある場合に、その調節をして通行可能にするためのもので、原理は下記の通りです。
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 途中でみた萩原閘門(河口22.4km、左岸)や小見川閘門(河口26.4km、左岸)なんかは、この典型例ですが、横利根川の閘門は違っていました。なんと、閘門の扉が観音開きなんです。

【小見川閘門】

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【横利根川閘門】
河口40km、左岸

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 これは、ちょっと感動しました。大正10(1921)年に完成したレンガ式の閘門で、最近復元したそうです。現役の閘門で、国の重要文化財になっているそうです。
 場所は、この辺です。





利根川下流部・視察(3)

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 最後に、河口66km地点の印旛水門に行きました。印旛水門は、印旛沼と利根川をつなぐ長門川に設置された水門で、1922(大正11)年に完成したものです。




【印旛水門】

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 水門の役割は、利根川から長門川、ひいては印旛沼に洪水が逆流して期来るのを防止することで、この水門ができるまでは、利根川からの逆流洪水で、印旛沼周辺は悩まされたといいます。
 地元では、そうした洪水を「外水」(そとみず)と読んでいたそうですが、その外水対策として、印旛水門が設置されました。これが1922年です。
 しかし、それでも治水上は不十分と考えられ、戦後、印旛沼干拓が「緊急干拓事業(食糧増産計画)」(1945.10閣議決定)に基づいて再開された(1946)後、印旛沼総合開発として展開される(1963~68)に際し、排水機場が設置されます。
 これにより、利根川→長門川→印旛沼という流れを印旛水門によって阻止するとともに、北沼からの排水を、酒直排水機場(20㎥/秒)、印旛排水機場(92㎥/秒)により行います。
 それでも足りない時は、西沼から新川→花見川→東京湾というルートで排水します。このルートの排水の要は大和田にある排水機場(120㎥/秒)で、この大和田排水機場が、新川・花見川の境目です。
 新川は、印旛疎水路ともいうように、洪水排出のために掘った人工河川です。
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【大和田排水機場】

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フジタ、ダム撤去で新工法

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フジタ、ダム撤去で新工法-熊本・荒瀬ダムに適用、3種の雷管で環境負荷を軽減
日刊工業新聞2015.6.16


 フジタは15日、熊本県八代市の荒瀬ダムの撤去工事で、3種類の雷管を組み合わせて周囲への環境負荷が小さい発破解体工法を適用したと発表した。
 解体工程に合わせて雷管の起爆までの時間間隔などを調整して、騒音や振動を基準値以下に抑えることができた。ダム撤去で同工法の適用は国内初。
 新しい工法は最初に起爆までの時間が250ミリ秒を使用。発破で発生するガスが施工の継ぎ目から逃げないうちに起爆させるため、同25ミリ秒の電気雷管を使って発破した。
 さらに解体が進むとダム本体が軽くなり振動が大きくなるため、秒時間隔を自由設定でき1回あたりの爆薬量が少ない電子雷管を15ミリ秒間隔で使用。振動は民家での基準値75デシベルより小さい59デシベルに抑えられた。
 国内初のダム撤去事例となる荒瀬ダムでは、12年度から6カ年の計画で撤去工事を進めている。第3段階となる本工事では14年11月―15年2月の間に実施。新工法によりダム建設前に川が流れていた部分のコンクリート約9500立方メートルを解体した。

新内海ダム訴訟、住民敗訴

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小豆島ダム訴訟、反対の住民敗訴 「公共の利益大きい」と判決
産経新聞2015.6.22
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 香川県が建設を進めてきた同県小豆島町の内海ダムに反対する住民らが、浜田恵造知事と塩田幸雄町長に再開発事業への公金支出差し止めなどを求めた訴訟で、高松地裁(福田修久裁判長)は22日、原告側の請求を棄却する判決を言い渡した。

内海ダムは治水や利水を目的として県が国の補助を受けて進めている事業で、平成25年4月に本体が完成。民主党政権時代には一時、見直しの対象になった。
 高松地裁は昨年10月、反対住民らが土地収用に向けた国の事業認定などの取り消しを求めた訴訟の判決で「ダムによって得られる公共の利益は大きい」とし、住民らの訴えを全面的に退けた。
 住民側は今回の訴訟で、ダムは治水や利水の両面で不要な上に自然環境を破壊するとして、合理性がない事業への公金支出は違法だと主張。
 知事が当時の知事個人に対して、県が21年度に支出した本体工事費など約54億円を返還請求するよう原告は訴えていた。
 また町長が当時の町長に、町が21年度予算に計上した負担金約5800万円を返還請求することも求めていた。

石木ダムに、外国人記者

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消えてしまうともったいないので、転載。

【長崎県石木ダム問題】
☆石木川まもり隊より。
昨日は雨の中、2人の外国人ジャーナリストが川原を訪れ、抗議行動の様子をカメラにおさめ、県側にも取材。いつになく優しく丁寧に熱く語る県職員のお二人でした~(*_*; 

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水道料訴訟 住民側の訴え棄却

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水道料訴訟 住民側の訴え棄却(山梨県)
山梨放送2015.6.23


 北杜市大泉町の住民が北杜市を相手取り水道料金値上げの無効を求めた裁判で、甲府地裁は23日、住民側の訴えを棄却した。
 この裁判は北杜市大泉町の住民52人が合併で市が水道の料金を上げたのは納得できないとし、料金体系を定めた市の条例の無効とこれまで支払った水道料金の返還を求めたもの。
 北杜市大泉町の水道料金は4年前から他の地域に合わせて段階的に値上げされ、旧大泉村時代に月額1360円だった水道料を2年後に2040円まで引き上げられる。
 23日の裁判で佐久間政和裁判長は「合併に伴う水道料金の統一はやむを得ない」などとして住民の請求を棄却した。
 判決を受け住民グループは「大門ダムの水を飲まなくても地域の生活に支障はきたさない。住民の思いが判決に考慮されず納得できない」として控訴を検討する考えを示した。
 北杜市は「市の主張が認められたと考える引き続き水道事業の健全運営に努める」としている。

石木ダムで裁決書

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長崎石木ダム建設:県収用委が土地明け渡し要求の裁決書
毎日新聞長崎版2015.6.23

【参考】
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 長崎県などが同県川棚町に計画する石木ダム建設を巡り、県収用委員会が反対地権者に対し、予定地内の土地を明け渡すよう求める裁決書をまとめた。明け渡しに応じない場合の強制収用が可能になった。
 県は昨年9月、4世帯が所有する計約5500平方メートルの明け渡しなどを求める収用裁決を収用委に申請した。これを受け、収用委が審理で県や地権者らの意見を聞き、土地の補償額などに関する裁決書をまとめた。
 県の担当者は「裁決書が届いていないのでコメントできない」とし、地権者の1人は「無理やり土地を取るなんて、ふざけたやり方だ。金も受け取らない」と憤る。事業は1975年に事業採択。反対派住民と行政の対立が続き、本体着工のめどは立っていない。【小畑英介、梅田啓祐】

八ッ場ダム公聴会(1)

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八ッ場ダム 「建設中止」の声相次ぐ 強制収用可否 判断で公聴会
東京新聞・群馬版2015.6.27
 
【算用数字に改め、記載】
 長野原町の八ッ場(やんば)ダム建設工事をめぐる公聴会が26日、東吾妻町コンベンションホールで始まった。早期完成を求める水没予定地の地元住民がいる一方、利水・治水効果を疑問視し、ダム周辺の土砂災害の危険性が増すと指摘するなど建設中止を求める意見が相次いだ。
 八ッ場ダムは今年1月に着工し、完成は2019年度の見込み。国土交通省によると、建設に必要な土地の取得率は三月末で約93%だが、残りの地権者の中には所在不明の人もいる。
 同省は4月、国交相宛てに、予定地の強制収用を可能にする事業認定を申請。公聴会は、事業認定の可否を判断するための意見収集が目的で、この日は公述を希望した11組が意見した。
 公述人の1人で、日本大学の竹本弘幸講師(地震地質学)は、建設予定地の地層は貯水により水を含むと不安定になり、ダム湖や吾妻渓谷の土砂災害などのリスクは高まると指摘。
 茨城や埼玉から参加した複数の公述人は、計画の見込みより水使用量は減っており「流域圏は水余りに苦しんでいる。治水効果も期待できない」と建設中止を求めた。
 一方、長野原町の元町議星河由紀子さん(72)は「まだ反対の声が聞かれ、心を痛めている。ここまできたら中止せずに早く完成させ、安心した暮らしを与えて」。
埼玉県加須市の角田守良副市長も「流域圏の治水、利水効果はある。1日も早い完成を」と訴えた。
 公聴会は27日も開かれる。その後、第三者機関の意見も聞き、事業認定の可否が判断される。 
(川田篤志)

八ッ場ダム公聴会(2)

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八ッ場ダム:公聴会終了 賛成派「流域の水害防止」 反対派「水道の需要低下」 /群馬
毎日新聞・群馬 2015.6.28


 八ッ場ダム(長野原町)建設事業の用地強制収用に向けて、国土交通省は27日、東吾妻町内で2日目となる公聴会を開いた。賛成派は流域の水害防止、水道・工業用水確保など建設の意義を強調。これに対し、市民グループなど反対派は、(1)下流域で堤防を越える水害は発生していない(2)人口減による水道水の需要低下−−などを挙げて、建設中止を主張した。
 公聴会は土地収用法に基づき、国交相が強制収用の可否を判断するための手続き。27日は公述人として11の個人・グループが意見を表明し、全日程を終えた。今後は国の第三者機関である社会資本整備審議会の意見聴取や、県収用委員会の審理を経て、未取得地の強制収用が可能になる。
 八ッ場ダム建設工事は、水没予定地のJR吾妻線や幹線道路の付け替えをほぼ終了し、国交省は今年1月、ダムの本体工事に着手している。
【高橋努】

多摩川水害訴訟・現場を訪ねて

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 今日は、かつて多摩川水害訴訟の舞台となった水害被害地を訪ねてきました。場所は、多摩川河口約23kmの左右両岸で、川崎駅から約17kmの地点です。

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【多摩川全景】

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 小田急線の急行に乗りましたので、登戸駅につきました。こちらは、川崎市多摩区になります。
 多摩川水害というのは、1974(S49)年9月1日に起きた水害で、二ヶ領用水の取水堰となっている宿河原堰が洪水の流れを阻害し、そのため、左岸側に迂回流が生じ、ついには左岸で260mにわたって破堤したという水害です。
 事件は、水害の2年後の1976年に提訴。
 第1審判決が1979年に出て、住民勝訴となります。当時、全国的にたくさんの水害訴訟が提起されていましたが、その中の1つ、大東水害訴訟で最高裁判決が出て、そこで河川管理上の違法を極めて制限的に解釈する(実質的には国が負けない)基準を作り、本来なら、その判例の射程がであるはずの多摩川水害訴訟にまで判例を適用。控訴審(東京高裁)では、一転、住民逆転敗訴判決なります。
 その後、最高裁で、「多摩川水害は大東水害訴訟の判例の射程外」とする判断が出て、高裁に差し戻し。最終的に、高裁で住民勝訴判決が出るまで、16年です。大変な裁判になりました。

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 上記は水害当時の新聞記事ですが、水がひくまでの3日間、TV中継など、詳細な報道があったそうなので、ご記憶にある方も多いかもしれません。最後は、迂回流ひいては破堤の原因となっている宿河原堰を、自衛隊などが爆破して、水害を軽減しました。
 この水害では、左岸側の民家19棟が流れ、その被害者のある方が「家を失ったことのほかに家族のアルバムを失ったことが大変ショックであった」という話をされたことをきっかけに、山田太一氏が脚本を書き、『岸辺のアルバム』(主演・八千草薫)としてドラマ化されたりもしました。

 その後、固定堰だった宿河原堰は。可動堰として生まれ変わり(1995年着工、1999年竣工)、現在に至っています。
 その新・宿河原堰は下記です。左岸には、同堰の仕組みを解説した碑とともに、土木学会賞を知らせる碑もたっていました。改築後には、魚道が改良されています。

【宿河原堰・右岸】

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【魚道】

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【宿河原堰・左岸】

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 右岸側(川崎市多摩区)には、二ヶ領用水が流れています。というより、二ヶ領用水のための取水堰として、宿河原堰は作られました。戦国末期の1597(慶長2)年に灌漑用水事業が始められ、完成は1611(慶長16)年に完成しました。まだ、大坂冬・夏の陣の前ですね。
 二ヶ領用水をめぐっては。戦前の小河内ダム計画などで色々あるのですが、そうした話は飛ばしまして、現在の様子をお見せします。
 今日はこんな感じでした。多分、桜の時期に来るとすごく綺麗だと思います。

【二ヶ領用水】

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 最初に右岸側に来てしまったので、その後左岸に行きました。ひょっとしたら、電車1駅乗らないといけないのかなぁと思ったのですが、ちゃんと渡れました(多摩水道橋)。途中、神奈川県と東京都の境がありました。

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 左岸側は、自動車教習所や狛江・水辺の学校となっています。河川法24条(土地の占用許可)をうけているもので、後者については占用許可がネット上で検索できました。

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 左岸には、決壊碑がありました。記念碑には、冒頭の水害訴訟の件も触れられています。

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滝発電所が運転再開

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金山の滝発電所が運転再開 豪雨被害以来4年ぶり
福島民報2015.7.2


 電源開発は1日、平成23年7月の新潟・福島豪雨で被害を受けた金山町の滝発電所の復旧作業が完了し、4年ぶりに運転を再開したと発表した。
 滝発電所は下流部の護岸の補修工事のため、昨年からダムに貯水していた。同社はダムの水位の低下やダム周辺にたまった砂の除去など只見川流域の安全対策を進める。
 同発電所をめぐっては、金山町などの住民がダムにたまった砂を撤去するまでの発電に必要な湛水(たんすい)の差し止めなどを求め、提訴した。
 只見町の住民らはダムなどにたまった砂を適切に除去しなかったため、豪雨の被害が拡大したなどとして損害賠償を求める訴えを起こした。
 ともに地裁会津若松支部で係争中。

インタビュー 宮本博司さん

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(インタビュー)変わらぬダムに物申す ダム懐疑派になった元長良川河口堰建設所長・宮本博司さん
朝日新聞2015.7.4
 
 
 計画浮上から63年の八ツ場ダム(群馬県)が本体着工し、巨大防潮堤やスーパー堤防の建設も進む。そんな現状に、長良川河口堰(かこうぜき)(三重県)が20年前の7月6日に全国的な批判を浴びながら本格運用を始めた際、直前まで現場トップだった元国土交通省課長の宮本博司さんは異を唱える。これまで通りではいけない、と。
  
―長良川河口堰のスポークスマンだった人が国交省を辞め、今は八ツ場ダム批判派の集会に出て発言する。国交省では裏切り者扱いで、かつてを知る私にも戸惑いがあります。
 「一昨年、三重県の川上ダムを検証する地元自治体の委員会で委員長を務めましたが、その時も推進派の地元委員から面と向かって非難されました。『(近畿地方整備局河川部長だった)現職の時は事業を進めると言っていたじゃないか』と。私はただ、地域にとって最善の方法を探りたいと話してきただけですが……」
 
―ダム反対、ではない?
 「洪水対策のダムは、計画の場所に想定内の雨が降れば役に立ちます。ただし、違う場所に想定以上降ったらどうか。そして建設に数十年の時間と数千億円のお金がかかる。住民を移転させ、自然への影響も大きい。効果と副作用をわかったうえで合意できるなら進めようと言っているんです」
 
―国交省にいた時からダムに懐疑的だったんですか。
 「若い時からダム担当で、公共事業全盛のバブル時代は1年で50の新規ダム建設を旧大蔵省に予算要求したこともあります。ただ、一つひとつの事業に思い入れはなく、地元からくる書類を整えただけでした。それではだめなんだ。そう気づいたのは、1990年から3年間、苫田ダム(岡山県)の工事事務所長だった時です」
 「構想から30年余りたつのに反対が強く、『とまったダム』と言われていました。水没する500戸中、移転を拒む70戸は先が見えず耐えているだけ。同意した430戸も進んで故郷を出るわけではない。赴任早々、玄関に卵をぶつけられたこともあります。住み慣れた家を出る切なさは計りしれない。あの時はもう立派なダムを早く完成させるしかないと思いましたが、ダムはこんな地獄のような苦しみを住民に味わわせるんだと、現場で思い知りました」
 
―では、ダムを造る代わりにどうすればいいのでしょう。
 「まず堤防の強化です。日本の河川堤防は土と砂でできていて、強くはない。なのに利根川や淀川の堤防は10メートルもの高さがある。大洪水で目いっぱいまで水位が上がった後に壊れたら、都市は壊滅的な打撃を受けます。雨水が川に流れず、内水があふれるゲリラ豪雨の比ではありません」
 
―ただ、国交省も堤防を強化しようと、スーパー堤防を首都圏や近畿圏で建設中です。
 「これは堤防の幅を高さの30倍に広げ、その上に家を建てるというものです。安全にはなっても費用は膨大。完成まで400年かかると批判されました。それより今の堤防を補強して洪水が乗り越えても壊れにくくなるようにしたら、少ない費用ですぐ役に立ちます。堤防の中にコンクリートのシートを入れて上から土をかぶせるなど、様々な工夫があります。国交省には実績もあるんです」
 
■ ■
 
―河口堰が95年に完成した時、旧水資源開発公団に出向して現場トップの建設所長でした。
 「地域と関係ない作家や俳優、与党の国会議員まで反対し、連日報道される事業なんて初めて。当時の建設省河川局(現在の国交省水管理・国土保全局)は局長以下、課を超えて議論しましたよ。新しい方針が次々と出ました。批判派も入れて調査委員会を作れ、情報は全部出せ、隠すな、と」
 「運用開始の直前まで賛否両派の公開の円卓会議を続けました。しかしどれだけ頑張っても天下り先を作るためだろ、業者をもうけさせるためだろと言われ、空しかった。河口堰は完成させる。でも二度とこんな騒ぎはごめんだ。それが河川局の共通認識でした」
 
―その後、ダム政策が大幅に見直されるようになります。
 「外部の委員を入れたダム審議会が主な事業ごとに作られ、省内の総点検でも次々にダムが中止、休止になりました。上司が『あの事業を止めろ』と言ってきたくらい。もちろん、ずっとダムを造ってきたごりごりの人もいるし、いままで進めてきたすべての事業をいきなりやめられるものではない。でも少なくとも本流に造るのはもうやめよう、そんな議論までしました。そのうえで97年に河川法が改正されます」
 
―環境配慮や市民参加の河川計画作りをうたった大型改正ですね。その後、関西に赴任し、淀川水系の河川整備計画に市民らの意見を反映させる流域委員会を2001年に立ち上げました。
 「お手盛りの委員会では意味がないので委員の選任から学者や弁護士らに頼み、事務局も民間に置きました。情報公開は当然で、役所は資料を出して説明するだけ。提言の原案も委員が書くことにしました。当時の次官も了解し、『面白いじゃないか』と河川局で評判でした。国交省の各地の出先から見学にきたほどです」
 
■ ■
 
―この流域委員会は、ダムは原則建設しないという提言を03年に出したことで有名です。当時、淀川水系には計画・建設中のダムが五つありました。
 「その『原則ダムなし提言』で流れが変わるんです。実は一つひとつ川の状況を確認しながら議論していけば自然にそういう結論が出る可能性もあったのに、委員が先回りして原則を宣言してしまった。やり方が学者だなあと思いましたが、そこでブレーキをかければ前と同じ。腹をくくった」
 「提言はよく読めば、ただし書きに『ほかに方法がなければダムを建設できる』と書いてあるのに、『国交省が作った委員会がダム否定』とセンセーショナルに報道されてしまった。与党推薦の学者が安保法制を憲法違反と言うようなもので、驚いた本省が撤回させろと言ってきました。いまから思えば、もともと本省は『宮本なら最後はダム推進でまとめるだろう』と期待していたんでしょう」
 
―国交省はその後、05年に2ダムだけ凍結します。06年に退職した宮本さんは翌年、淀川水系流域委員会の委員長になりました。
 「京都の実家に戻ったら委員会が市民委員を公募していて、応募して選ばれ、互選で委員長になりました。前と違って役所が原案を作ったり、途中で委員会を休止したりするようになっていましたが、国交省が凍結を撤回した大戸川ダムを含め、ダム計画を不適切とする意見をまとめました。巻き返しが強く、正式中止は、5ダムのうち余野川ダムだけですがね」
 
■ ■
 
―日本の治水対策は何が問題なのでしょうか。
 「洪水は堤防の中に閉じ込め、川を直線にして早く海に流せ。これが明治以来の治水の考えです。目標とする洪水の規模を定め、川の中で何トン、上流のダムで何トンと分担させる。一見合理的ですが、実際の堤防は土と砂で、計算通りに対応できるかわからない。それに利根川や淀川は200年に1回の大洪水、球磨川は80年に1回の洪水規模を想定していますが、目標の決め方に根拠はない。なぜうちの川はこうなんだ、と質問されても説明できません」
 
―欧州では、川をあえて蛇行させ、氾濫原(はんらんげん)を復活させる治水対策に取り組んでいます。
 「国交省も世界の流れはわかっている。利根川が200年に1回の洪水に耐えられるようにするには、八ツ場ダムの後もいくつもダムを造らなきゃいかん。でもできっこない。そんな全体計画もない。ただ目の前の事業だけはやらせてくれ、それだけです」
 
―東日本大震災後は国土強靱(きょうじん)化が唱えられ、ダムなどの大型公共事業を見直す議論にはなっていないように見えます。
 「そこが不思議です。巨大な津波でコンクリート構造物に頼る危険性を思い知り、200年に1回どころかもっと上の想定外がありうることを知ったのに、なぜ従来通りの事業が進むのか。政治家も見直しを言わなくなりました」
 「治水対策は、役所任せでなく、計画段階から住民を交えて事業のいい面、悪い面を徹底的に議論し、地元住民の合意を得て進めなければなりません。そうでなければ、住民の命を守るという本来の目的が果たせない。役所の人間も本当はわかっているんですよ。これまで通りでは命を守れない、ということを」
 
*みやもとひろし
52年生まれ。78年に旧建設省入省。近畿地方整備局河川部長や本省防災課長などを務め、06年に退職。現在は家業の包装資材販売会社社長。
  
■取材を終えて
  20年ぶりに一緒に歩いた河口堰の階段はさび付き、展示施設は天井の覆いがはがれていた。「あんなに膨大なエネルギーをつかって議論した現場がこれか」。宮本さんは怒っていた。いわゆる環境派としてダムや堰に反対するのではなく、合意なき公共事業の破綻(はたん)を憂えている。国土強靱化に邁進(まいしん)するこの国の政治は、宮本さんが示そうとした第三の道を見失っていないか。
(編集委員・伊藤智章)
 

夢の島・第5福竜丸

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 昨日は、ビキニ事件の第5福竜丸の展示館があるということを知って、その展示館に行ってきました。場所は、夢の島(東京都江東区)です。



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【第五福竜丸展示館】

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 夢の島というと、東京都の大きな清掃工場のある場所ですが、そんなところに、第5福竜丸展示館があるかと言うと、1954年3月1日の米国・水爆実験で第5福竜丸が被爆したあと、第5福竜丸は、東京水産学(現・東京海洋大学)の練習船(はやぶさ丸と改名)になりました。
 しかし、1976年に老朽化のため廃船処分が決まります。その翌春、第5福竜丸の消息が報じられるようになり、船は、夢の島にあることが知られるようになったのです。
 その時、1人の青年の当初が朝日新聞に載りました(1977.3.10)。青年の名は、武藤宏一さんといいます。当時26歳でした。
 その当初は、展示館の中にも掲げられています。残念ながら、癌で早世されています(1982年、享年40歳)。

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 米国がロスアラモス(ニューメキシコ州)で、核実験に成功したのが1945年の7月16日。ポツダム宣言に繋がる、ポツダム会議の前日でした。会議前日に核兵器が開発されたことは、ポツダム宣言の第13条に反映されています。
【ポツダム宣言】
13)我々は日本政府が全日本軍の即時無条件降伏を宣言し、またその行動について日本政府が十分に保障することを求める。これ以外の選択肢は迅速且つ完全なる壊滅があるのみである。
(現代語訳)

13)We call upon the government of Japan to proclaim now the unconditional surrender of all Japanese armed forces, and to provide proper and adequate assurances of their good faith in such action. The alternative for Japan is prompt and utter destruction.

 宣言にいう「迅速且つ完全なる壊滅」が、広島(8/6、死者14万人)、長崎(8/9,死者7万人、死者はいずれも1945年までの死者数、その後の関連死は除く)を意味するのは、ご想像の通りです。
 

 米国は、戦後、核技術を独占する想定で、マンハッタン計画を進めいていましたが、実際にはソ連のスパイがたくさん流入しており、そうして計画の情報が漏れ出し、ついに1949年8月29日、ソ連が原爆実験に成功します。
 焦った米国は、原爆を上回る水爆(水素爆弾)の技術を独占することで、核戦略の優位を保とうとしました。核分裂反応による原子爆弾と違い、水素爆弾は核融合ですので、やり方次第では、いくらでも破壊力を増すことができます。現に、第5福竜丸が被爆した水爆実験(爆弾名は”ブラボー”)では、広島型原爆の1,000倍だったと言われています。
 そうした水爆実験に米国が成功するのが1952年11月1日のアイビー実験です。しかし、”人類初の水爆実験成功”からつかの間の、翌53年8月12日、ソ連も水爆事件を成功させ、原爆・水爆ともに、米国の独占戦略は破綻しました。
 そうなると、早い話、「質より量」になります。そうして、軍拡競争が始まっていきます。マーシャル諸島・ビキニでの核実験は、そうした最中でした。

【第五福竜丸】 

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 第5福竜丸事件後、国内的には、杉並その他での反核署名が始まり、これが1955年8月に、第1回原水爆禁止大会(広島)に繋がっていきます。

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 展示館の外には、その後改修された第5福竜丸のエンジンの展示があり、また、この事件で、被爆後半年でなくなった船長・久保山愛吉さんの慰霊碑が、「原水爆の犠牲者は、わたしを最後にして欲しい」という有名な言葉とともに、置かれていました。

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 それから、まぐろ塚です。
 この事件では、直後に放射能を浴びたマグロを大量廃棄しました。被爆した第5福竜丸はマグロ船だったわけですが、そのマグロを悼み、マグロ塚が館外に作られています。
 本当は、マグロを廃棄した築地に作りたかったそうですが、築地市場の移転工事のため、現在、夢の島に一時的に置かれています。

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 また、東宝映画・ゴジラも、この第5福竜丸事件がきっかけでした。東京湾に眠っていた太古の怪獣・ゴジラ(由来は、ゴリラ+クジラですね)が、水爆実験をきっかけに目を覚まし、人々を襲うという話でした。今、You tubeの東宝チャンネルで、第1作の予告編が見られます。


 また、日本の原子力開発が、このビキニ事件の最中に始まることも有名です。第5福竜丸が被爆したのが3/1、焼津に帰港したのが3/14、その2日後の3/16に読売新聞がスクープし、私たちがよく見かける、下記の新聞記事で報道します。

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 3月といえば、通常国会の会期中です。その前年、1953年の12月8日に、アイゼンハワー大統領が「Atoms For Peace」(平和のための原子力)を国連演説したのを受けて、このビキニ事件の最中に、日本発の原子力予算が成立(予算はウランの原子番号をもじって2億3,500万円)します。立役者は、当時・改進党の中曽根康弘氏でした。

 事件そのものは、日米政府の間で、「見舞金」という名の政治決着がはかれらます。当時の金額で、7億2千万円が支払われ、なくなった久保山愛吉さん(享年40、1954.9.23死去)に600万円が支払われたほか、乗組員には200万円の見舞金が支払われました。それでも、当時、非常に大きな妬みを駆ったそうです(小沢節子『第五福竜丸から「3.11」後へ』、岩波ブックレット、2011.10.26)。

 それから、忘れてはならないのは、世界的な影響として、ラッセル・アインシュタイン宣言ですね。ラッセルが世界のノーベル賞科学者に呼びかけ、核兵器廃絶のためのアピールをします。11人の科学者は、のち、核廃絶を実現するため、パグウォッシュ会議を創設。1957年に最初の会議が行われました、また、同会議は1995年にノーベル平和賞を受賞しています。



ラッセル・アインシュタイン宣言
1955年7月9日 ロンドンにおいて

 私たちは、人類が直面する悲劇的な情勢の中で、科学者たちが会議に集まって、大量破壊兵器の発達の結果として 生じてきた危険を評価し、ここに添えられた草案の精神において決議を討論すべきであると感じている。
 私たちが今この機会に発言しているのは、あれこれの国民や大陸や信条の一員としてではなく、その存続が疑問視されている人類、人という種の一員としてで ある。世界は紛争に満ち満ちている。そしてすべての小さな紛争の上にかぶさっているのは、共産主義と反共産主義との巨大な闘いである。
 政治的な意識を持つ者はほとんど皆、これらの問題のいくつかに強い感情を抱いている。しかし、もしできるならば、皆さんにそのような感情をしばらく脇に 置いて、ただ、すばらしい歴史を持ち、私たちの誰一人としてその消滅を望むはずがない生物学上の種の成員として反省してもらいたい。
 私たちは、1つの集団に対し、他の集団に対するより強く訴えるような言葉は、一言も使わないように心がけよう。すべての人が等しく危機にさらされてお り、もしこの危機が理解されれば、皆さんがいっしょになってそれを避ける望みがある。
 私たちは新たな仕方で考えるようにならなくてはならない。私たちは、どちらの集団をより好むにせよ、その集団に軍事上の勝利を与えるためにどんな処置が とられうるかを考えてはならない。私たちが考えなくてはならないのは、そんな処置をとればすべての側に悲惨な結末をもたらすに違いない軍事的な争いを防止 できるかという問題である。
 一般大衆は、そしてまた権威ある地位にある多くに人々でさえ、まだ核爆弾による戦争によって起こる事態を自覚していない。一般大衆は今でも都市が抹殺さ れるくらいに考えている。新爆弾が旧爆弾よりも強力だということ、原子爆弾1発で広島を抹殺できたのに対して水素爆弾なら1発でロンドンやニューヨークや モスクワのような最大都市を抹殺できるだろうということは理解されている。
 疑いもなく、水爆戦争では大都市が抹殺されてしまうだろう。しかしこれは、私たちの直面しなければならない小さな悲惨事の1つである。たとえロンドンや ニューヨークやモスクワのすべての市民が絶滅したとしても2、3世紀の間には世界は打撃から回復するかもしれない。しかしながら今や私たちは、特にビキニ の実験以来、核爆弾は想像されていたよりもはるかに広い地域にわたって徐々に破壊力を広げることができることを知っている。
 信頼できるある筋から、今では広島を破壊した爆弾の2500倍も強力な爆弾を作ることができるということが述べられている。 
 もしそのような爆弾が地上近くまたは水中で爆発すれば、放射能を持った粒子が上空へ吹き上げられる。そしてこれらの粒子は死の灰または雨の形で徐々に落 下してきて、地球の表面に降下する。日本の漁夫たちをその漁獲を汚染したのは、この灰であった。
 そのような致死的な放射能を持った粒子がどれほど広く拡散するのか、誰も知らない。しかし最も権威ある人々は一致して水素爆弾による戦争は実際に人類に 終末をもたらす可能性が十分にあることを指摘している。もし多数の水素爆弾が使用されるならば、全面的な死滅が起こる心配がある。
 ――瞬間的に死ぬのはほんのわずかだが、多数の者はじりじりと病気の苦しみをなめ、肉体は崩壊していく。
 多くの警告が著名な科学者や権威者によって軍事戦略上から発せられている。しかし、最悪の結果が必ず来るとは、彼らのうちの誰も言おうとしていない。実 際彼らが言っているのは、このような結果が起こる可能性があるということ、誰もそういう結果が実際起こらぬとは断言できないということである。この問題に ついての専門家の見解が少しでも彼らの政治上の立場や偏見に左右されたということは今まで見たことがない。私たちの調査で明らかになった限りでは、それら の見解はただ専門家のそれぞれの知識の範囲に基づいているだけである。一番よく知っている人が一番暗い見通しを持っていることがわかった。
 さて、ここに私たちがあなたがたに提出する問題、厳しく、恐しく、そして避けることのできない問題がある――私たちは人類に絶滅をもたらすか、それとも 人類が戦争を放棄するか? 人々はこの二者択一という問題を面と向かって取り上げようとしないであろう。というのは、戦争を廃絶することはあまりにも難し いからである。
 戦争の廃絶は国家主権に不快な制限を要求するであろう。しかしおそらく他の何にも増して事態の理解を妨げているのは、「人類」という言葉が漠然としてお り、抽象的だと感じられる点にあろう。人々は、危険は自分自身や子どもや孫たちに対して存在し、単にぼんやり感知される人類に対してではないということ を、はっきりと心に描くことがほとんどできない。人々は個人としての自分たちめいめいと自分の愛する者たちが、苦しみながら死滅しようとする切迫した危険 状態にあるということがほとんどつかめていない。そこで人々は、近代兵器さえ禁止されるなら、おそらく戦争は続けてもかまわないと思っている。
 この希望は幻想である。たとえ水素爆弾を使用しないというどんな協定が平時に結ばれていたとしても、戦時にはそんな協定はもはや拘束とは考えられず、戦 争が起こるや否や双方とも水素爆弾の製造に取りかかるであろう。なぜなら、もし一方がそれを製造して他方が製造しないとすれば、それを製造した側は必ず勝 利するに違いないからである。
 軍備の全面的削減に一部として核兵器を放棄する協定は、最終的な解決を与えはしないけれども、一定の重要な目的には役立つであろう。
 第一に、およそ東西間の協定は、これが緊張の緩和を目指す限り、どんなものでも有益である。第二に、熱核兵器の廃棄は、もし相手がこれを誠実に実行して いることが双方に信じたれるとすれば、現在双方を神経的な不安状態におとしいれている真珠湾式の奇襲への恐怖を減らすことになるであろう。それゆえ私たち は、そのような協定を歓迎すべきである。
 私たちの大部分は感情的には中立ではない。しかし人類として、私たちは次のことを銘記しなければならない。すなわち、もし東西間の問題が誰にでも――共 産主義者であろうと反共産主義者であろうと、アジア人であろうとヨーロッパ人であろうと、または、アメリカ人であろうとも、また白人であろうと黒人であろ うと――可能な満足を与えうるような何らかの仕方で解決されなくてはならないとすれば、これらの問題は戦争によって解決されてはならない。私たちは東側に おいても西側においても、このことが理解されることを望む。
 私たちの前には、もし私たちがそれを選ぶならば、幸福と知識と知恵の絶えない進歩がある。私たちの争いを忘れることができぬからといって、その代わり に、私たちは死を選ぶのであろうか? 私たちは、人類として、人類に向かって訴える――あなたがたの人間性を心にとどめ、そしてその他のことを忘れよ、 と。もしそれができるならば、道は新しい楽園へ向かって開けている。もしできないならば、あなたがたの前には全面的な死の危険が横たわっている。

決議
 私たちは、この会議を招請し、それを通じて世界の科学者たちおよび一般大衆に、次の決議に署名するよう勧め る。
 「およそ将来の世界戦争においては必ず核兵器が使用されるであろうし、そしてそのような兵器が人類の存続を脅かしているという事実から見て、私たちは世界の諸 政府に、彼らの目的が世界戦争によっては促進されないことを自覚し、このことを公然と認めるよう勧告する。従ってまた、私たちは彼らに、彼らの間のあらゆ る紛争問題の解決のための平和的な手段を見出すよう勧告する。」

マックス・ボルン
P・W・ブリッジマン
アルバート・アインシュタイン
L・インフェルト
F・J・ジョリオ・キュリー
H・J・ムラー
ライナス・ポーリング
C・F・パウェル
J・ロートブラット
バートランド・ラッセル
湯川秀樹


****************
英文はこちらを参照。

The Russell-Einstein Manifesto
Issued in London, 9 July 1955

 In the tragic situation which confronts humanity, we feel that scientists should assemble in conference to appraise the perils that have arisen as a result of the development of weapons of mass destruction, and to discuss a resolution in the spirit of the appended draft.
 We are speaking on this occasion, not as members of this or that nation, continent, or creed, but as human beings, members of the species Man, whose continued existence is in doubt. The world is full of conflicts; and, overshadowing all minor conflicts, the titanic struggle between Communism and anti-Communism.
 Almost everybody who is politically conscious has strong feelings about one or more of these issues; but we want you, if you can, to set aside such feelings and consider yourselves only as members of a biological species which has had a remarkable history, and whose disappearance none of us can desire.
 We shall try to say no single word which should appeal to one group rather than to another. All, equally, are in peril, and, if the peril is understood, there is hope that they may collectively avert it.
 We have to learn to think in a new way. We have to learn to ask ourselves, not what steps can be taken to give military victory to whatever group we prefer, for there no longer are such steps; the question we have to ask ourselves is: what steps can be taken to prevent a military contest of which the issue must be disastrous to all parties?
 The general public, and even many men in positions of authority, have not realized what would be involved in a war with nuclear bombs. The general public still thinks in terms of the obliteration of cities. It is understood that the new bombs are more powerful than the old, and that, while one A-bomb could obliterate Hiroshima, one H-bomb could obliterate the largest cities, such as London, New York, and Moscow.
 No doubt in an H-bomb war great cities would be obliterated. But this is one of the minor disasters that would have to be faced. If everybody in London, New York, and Moscow were exterminated, the world might, in the course of a few centuries, recover from the blow. But we now know, especially since the Bikini test, that nuclear bombs can gradually spread destruction over a very much wider area than had been supposed.
 It is stated on very good authority that a bomb can now be manufactured which will be 2,500 times as powerful as that which destroyed Hiroshima. Such a bomb, if exploded near the ground or under water, sends radio-active particles into the upper air. They sink gradually and reach the surface of the earth in the form of a deadly dust or rain. It was this dust which infected the Japanese fishermen and their catch of fish. No one knows how widely such lethal radio-active particles might be diffused, but the best authorities are unanimous in saying that a war with H-bombs might possibly put an end to the human race. It is feared that if many H-bombs are used there will be universal death, sudden only for a minority, but for the majority a slow torture of disease and disintegration.
 Many warnings have been uttered by eminent men of science and by authorities in military strategy. None of them will say that the worst results are certain. What they do say is that these results are possible, and no one can be sure that they will not be realized. We have not yet found that the views of experts on this question depend in any degree upon their politics or prejudices. They depend only, so far as our researches have revealed, upon the extent of the particular expert's knowledge. We have found that the men who know most are the most gloomy.
 Here, then, is the problem which we present to you, stark and dreadful and inescapable: Shall we put an end to the human race; or shall mankind renounce war? People will not face this alternative because it is so difficult to abolish war.
 The abolition of war will demand distasteful limitations of national sovereignty. But what perhaps impedes understanding of the situation more than anything else is that the term "mankind" feels vague and abstract. People scarcely realize in imagination that the danger is to themselves and their children and their grandchildren, and not only to a dimly apprehended humanity. They can scarcely bring themselves to grasp that they, individually, and those whom they love are in imminent danger of perishing agonizingly. And so they hope that perhaps war may be allowed to continue provided modern weapons are prohibited.
 This hope is illusory. Whatever agreements not to use H-bombs had been reached in time of peace, they would no longer be considered binding in time of war, and both sides would set to work to manufacture H-bombs as soon as war broke out, for, if one side manufactured the bombs and the other did not, the side that manufactured them would inevitably be victorious.
 Although an agreement to renounce nuclear weapons as part of a general reduction of armaments would not afford an ultimate solution, it would serve certain important purposes. First, any agreement between East and West is to the good in so far as it tends to diminish tension. Second, the abolition of thermo-nuclear weapons, if each side believed that the other had carried it out sincerely, would lessen the fear of a sudden attack in the style of Pearl Harbour, which at present keeps both sides in a state of nervous apprehension. We should, therefore, welcome such an agreement though only as a first step.
 Most of us are not neutral in feeling, but, as human beings, we have to remember that, if the issues between East and West are to be decided in any manner that can give any possible satisfaction to anybody, whether Communist or anti-Communist, whether Asian or European or American, whether White or Black, then these issues must not be decided by war. We should wish this to be understood, both in the East and in the West.
 There lies before us, if we choose, continual progress in happiness, knowledge, and wisdom. Shall we, instead, choose death, because we cannot forget our quarrels? We appeal as human beings to human beings: Remember your humanity, and forget the rest. If you can do so, the way lies open to a new Paradise; if you cannot, there lies before you the risk of universal death.

Resolution:
 We invite this Congress, and through it the scientists of the world and the general public, to subscribe to the following resolution:
 "In view of the fact that in any future world war nuclear weapons will certainly be employed, and that such weapons threaten the continued existence of mankind, we urge the governments of the world to realize, and to acknowledge publicly, that their purpose cannot be furthered by a world war, and we urge them, consequently, to find peaceful means for the settlement of all matters of dispute between them."

Max Born
Percy W. Bridgman
Albert Einstein
Leopold Infeld
Frederic Joliot-Curie
Herman J. Muller
Linus Pauling
Cecil F. Powell
Joseph Rotblat
Bertrand Russell
Hideki Yukawa

石木ダム反対で集会

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長崎)「声を上げ、世論喚起を」 石木ダム反対で集会
朝日新聞2015.7.5


 県と佐世保市が川棚町に計画する石木ダムについて考える集会「石木ダム問題の真実~失うものは美しいもの~」が4日、佐世保市のアルカスSASEBOであった。
 集会実行委員長の松本美智恵・石木川まもり隊代表は350人余りの参加者を前に「ダム建設に伴う付け替え道路の工事が始まった。市も市議会も反対する市民の声を聞こうとしないなら、私たち自身が声を上げるしかない」と訴えた。
 講演した石木ダム対策弁護団の板井優・副団長は「県と佐世保市がダムを造ろうとしている理由はでたらめ。この理不尽さを国民に知ってほしい」と述べ、「建設ノー」の世論の喚起を促した。
 反対運動を支援しているアウトドアメーカー、パタゴニアの辻井隆行・日本支社長も環境保護の観点から講演し「ダムに反対することは、本来の川の姿に賛成すること」などと話した。
(具志堅直)

【追記】
 石木ダム反対運動の概要を記したブックレットが先日、発売になりました。ご案内します。


石木ダム問題ブックレット制作委員会  編
定価:1000円+税 
ISBN978-4-7634-0743-6 C0036
発行 2015.6.15
A5判並製ブックレット138頁


●内容●
Ⅰ 石木ダム紛争の経過と現状
 第1章 石木ダム事業の概要
 第2章 石木ダム建設計画との闘い

Ⅱ 石木ダム事業は違法である!
 第1章 ダム事業の違法性を考える視点
 第2章 利水面から見た石木ダム事業の違法性 
 第3章 治水面から見た石木ダム事業の違法性 
 第4章 民主主義から見た石木ダム事業の違法性
 第5章 税金はもっと有効に活用してほしい

Ⅲ 今後の展望
 第1章 石木ダム問題は国民に何を突きつけるのか
 第2章 石木ダム事業を廃止に追い込むために
 第3章 石木ダム事業廃止
第4章 私たちは、これからもたたかい続ける
石木ダム反対運動年表

河口堰維持に239億円

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河口堰維持に239億円 「長良川」20年
中日新聞2015.7.6
(算用数字に改め、記載)


 6日で本格運用開始から丸20年となる長良川河口堰(ぜき)(三重県桑名市)の維持管理費が、来年3月末までに総額239億円に及ぶ見通しとなることが中日新聞社の調べで分かった。河口堰は約1、500億円で建設されたが、1995年の運用開始後も多額の税金が投じられている。造られると、莫大(ばくだい)な費用を必要とし続ける巨大公共事業の実態が浮き彫りになった。
 維持管理費239億円のうち、国を除く愛知、三重、岐阜の三県と名古屋市が全体の77%にあたる183億円を負担。愛知、三重県と名古屋市は過去20年間、河口堰で利用できるようになった工業用水や水道水をほとんど使っていないにもかかわらず、174億円を払い、一部は水道料金に転嫁されている。
 堰を管理する水資源機構中部支社(名古屋市)によると維持管理費は定員22人の管理所職員の人件費や設備更新費など。年によって変動はあるが、年間8億~16億円程度かかる。
 河口堰には治水と利水の目的があり、国と東海三県、名古屋市が負担を分け合う。治水分は2010年度まで国55%、愛知、岐阜、三重県が15%ずつで、11年度以降は国が全額負担。利水分は愛知、三重県と名古屋市が分担している。
 だが、堰建設で新たに使えるようになった最大毎秒22,50立方メートルの水のうち、実際の利用は、愛知県知多半島地域の水道に毎秒2.86立方メートルと三重県中勢地域の水道に毎秒0.73立方メートルの毎秒計3.59立方メートルで、全体の16%にとどまる。計画時の過大な需要予測が原因で大幅な水余りになっている。
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 残る84%の水を使うには導水路の整備が欠かせず、新たな税金投入が必要。2県1市によると、いずれも事業化のめどは立っておらず、将来使うかどうか現時点では不明だ。
 水資源機構などによると、一滴も使われていない水に対する負担の内訳は、愛知県の工業用水が45億円、三重県の工業用水が43億円、名古屋市の水道水が13億円。工業用水分は一般会計からの貸し付けなどで賄うが、水が売れないため返済される見込みはない。水道水は水道料金に反映されている。
 使っていない水の分まで維持費を負担していることについて、愛知県は「現段階で需要はないが、将来的に使える貴重な水源」との立場。三重県の担当者も「需要が発生すれば事業化していく」と話している。
 水資源機構中部支社の担当者は「今後、利用者の必要に応じて水は使われると考えている」としている。


◆不要な公共事業典型
 <法政大の五十嵐敬喜名誉教授(公共事業論)の話>
 水需要の増加予測は建設当時に一部で盛り上がった中部地方への首都機能移転構想に伴うもので、根拠がない。誰も責任を取らないまま、市民がつけを払わされ続けている。不要な公共事業の典型だ。

 <長良川河口堰>
 洪水対策で河床を掘り下げる浚渫(しゅんせつ)に伴う海からの塩水の遡上(そじょう)を防ぐ「治水」と、水需要を満たすための「利水」の両機能を併せ持つ全長661メートルの多目的可動堰。伊勢湾の河口から上流5・4キロにある。国は1968年に基本計画を定めたが、反対運動などで着工は88年にずれ込み、95年に完成した。

減るシジミ、嘆きの漁師 「自然はむちゃ微妙や」

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三重・長良川河口堰:稼働20年 減るシジミ、嘆きの漁師 「自然はむちゃ微妙や」
毎日新聞・中部版 2015.7.6


 長良川河口堰(ぜき)(三重県桑名市)のゲートが閉められ、本格運用が始まって6日で20年。建設を巡って反対運動が起こり、運用後も河川水の利用が最大取水量の2割に満たない中で、生態系への悪影響やその必要性を問い直す声は今も絶えない。
 この間、河口堰を日々見つめながら、シジミ漁などで生計をつないできたのが地元の漁師たちだ。劣化する漁場、変化する生態系??。「造ってくれと頼んだわけやないのに」。複雑な思いを抱きながら、節目を迎える一人の漁師を追った。
【松本宣良】


 6月22日午前5時過ぎ。朝日が川面を照らす中、赤須賀漁協(同市)に所属する漁船十数隻が次々とシジミ漁へ出ていく。「最初の頃は異様に映った。今は見慣れたけどな」。漁師歴50年のベテラン、伊藤順次さん(67)は眼前の河口堰を見やった。
 向かう先は長良川と並行して流れる揖斐(いび)川だ。元々、堰の上下流は海水と淡水が混じる汽水域でシジミ漁の好漁場だった。が、堰建設に伴うしゅんせつで泥がたまるなどして、稼働後3年目ぐらいから極端に取れなくなったという。「もうあかん、と見切って川を変えたんさ」
 網の付いた鉄棒を巧みに操って川底を引き、一定の量がたまると船に引き上げ、選別機にかけてかごへ入れる。資源保護などのため、漁協が漁獲量を1日140キロまでに制限しているが、「最近はそれだけ取るのに以前より時間がかかる」とこぼす。砂利やごみが多く、実入りが悪いのだ。
 「絶対量が減ってきている気がする。そりゃ、木曽三川(揖斐・長良・木曽川)のうち1本(長良川)がなくなったような状態で20年やろ。繁殖する分より取る分が徐々に勝り、利息どころか元金まで消えつつある感じや」
 長良川と揖斐川を隔てるヨシ原の変化も気になる。「堰の下流で段々削られている。昔はもっと河口部まであったんや」。伊藤さんは堰の影響と考え、「自然はむちゃ微妙や。川に人工物を造れば何か起こるわな」。深いため息をついた。
 ただ、堰を管理する独立行政法人・水資源機構は「治水、利水のため人為的に河川を改修し、構造物を造ったことは事実」と述べるだけで、因果関係には言及しない。
 午前8時半ごろ、約3時間の漁を終え、港に戻った。「この先、漁がどうなるか……恐らく好転は望めんやろ。おいらは年金もあるでボチボチやればいいけど、若い衆は困ると思うよ」。伊藤さんは堤防から見慣れた光景を見つめながら、うらめしそうにつぶやいた。

◇河口堰開門調査求める宣言採択 市民グループ
 愛知、岐阜県の長良川流域の約20の市民グループでつくる「よみがえれ長良川実行委員会」は5日、岐阜市でシンポジウムを開き、河口堰の開門調査を求める宣言を採択した。
 宣言は「川の恵みを未来につなぐためにも海とつながる豊かな川に再生しなければならない」と強調。「一日も早い開門調査の開始を切望する」としている。
 開門調査を巡っては、愛知県の大村秀章知事が2011年の初当選時に開門調査を公約に掲げ、県が調査方法などの検討を続ける一方、岐阜、三重両県は海水の遡上(そじょう)による塩害を懸念し、開門に難色を示している。
【岡正勝】
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■ことば
◇長良川河口堰
 長良川河口から約5・4キロ上流の三重県桑名市にある全長661メートルの国内最大級の可動式堰。水資源開発公団(現・水資源機構)が建設し、1995年7月6日、10あるゲートを全閉して本格運用を始めた。大規模なしゅんせつによる治水、堰上流の淡水化による愛知・三重両県と名古屋市の利水開発、塩水遡上(そじょう)防止を目的としている。総事業費は約1500億円。

長良川河口堰20年、止まらぬ論争

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長良川河口堰20年、止まらぬ論争 水利用低迷やアユ漁獲減少
本経済新聞2015.7.4 


 三重県桑名市の長良川河口堰(ぜき)が運用を始めて6日で20年の節目を迎える。4、5日に市民団体が今までを振り返るイベントを開くほか、開門調査を求めてきた愛知県も28日に有識者による検証委員会を実施する。
 推進派と反対派の対立はその後の公共事業のあり方を見直す契機にもなったが、事業そのものの是非は結論が見えない。
 「日本には大型公共事業を後で検証するシステムがない。我々は今後も粘り強く検証していく」。愛知県の大村秀章知事は有識者委を1年ぶりに開く意義をそう語る。
 愛知県は1月、開門調査に向けて国に質問状を提出した。これに対し国は今年5月、400ページにのぼる回答を寄せた。7月末の検証会合では有識者が回答を検討し、今後の対応を話し合う。
 河口堰の総工費は1500億円。国と愛知県や名古屋市、三重県、岐阜県が負担した。さらに毎年、維持費が約10億円かかる。そのコストに見合う事業なのか、今なお大きな争点になっている。
 河口堰の目的の一つは利水だ。河口堰で毎秒最大22.5立方メートルの水資源が生まれた。しかし使われているのは同3.6立方メートルと16%にすぎない。
 国が河口堰の構想を作ったのは1960年代の高度経済成長期。愛知や三重は日本を支える重工業地帯として発展し、水需要も大きく拡大するはずだった。その後、産業構造の変化や各企業の節水の取り組みで、もくろみは大きくはずれた。
 一方で「夏の水不足を緩和させる効果は高い」との声も自治体の間では根強い。2005年の渇水時には長良川の水を愛知に供給し、悪影響の緩和に一役買った。
 環境に与える影響でも意見が分かれる。
 「魚道を流れる5センチほどの小さな魚がアユです」。河口堰を管理する水資源機構は5月下旬、報道陣向けに魚道の見学会を開いた。「今年のアユの遡上は多い。河口堰のアユへの影響はほぼない」と機構は胸を張る。
 ただ、この20年をみると、河口堰の運用前の93年に激減し、その後回復がみられない。機構は「全国的にアユの漁獲は減った。長良川に限ったものではない」と説明するが、長良川市民学習会の武藤仁事務局長は「悪影響は明白だ」と反論する。
 事実、岐阜市は今年天然アユを「準絶滅危惧」に選定した。「放流などの手助けがなければアユは絶滅の可能性すらある」(武藤氏)。双方の主張はかみ合っていない。
 20年前、旧建設省の官僚として現場で河口堰にかかわった宮本博司氏(62)は言う。「事業の推進側は20年前に言っていたことがどこまで正しかったか検証し、逆に反対派は河口堰が生んだメリットを語らなければ、次の世代に何の教訓も残せない」。お互いの主張を繰り返すだけでは風化が進むだけだと危惧する。
 河口堰問題をきっかけに、国は1997年に河川法を改正し、環境保全や住民参加の仕組みを取り入れた。公共事業への国民の目は厳しさを増し、政府の投資額は20年で半分近くに減った。国の財政が厳しい中でどう有用な社会インフラを整備するか。長良川河口堰は今も大きな問いを投げかけている。

八ッ場ダムの土地収用公聴会ー

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東京新聞特報部
ー八ッ場ダムの土地収用公聴会ー  
2015.7.5
 →算用数字に改め、記載。

 民主党政権時代に「無駄な公共事業の象徴」とされた八ツ場ダム(群馬県長野原町)の建設工事に関し、国は土地収用をめぐる公聴会を開いた。国土交通省側がダムの必要性や公益性を強調する一方で、水没予定地で暮らす住民は事業の進め方を批判。市民団体メンバーからは、建設目的が失われているとの訴えが相次いだ。あらためて問う。八ツ場ダムは本当に必要なのか。
(篠ケ瀬祐司)


 「生前葬の気持ちで来た」
  喪服着て抗議示す

 「今日は(自分の)前葬の気持ちで来ている」
 公聴会は6月26、27日の両日、長野原町に隣接する東吾妻町のホールで開かれた。2日目に、長野原町の高山彰さん(61)が登壇した。黒いダブルの礼服に黒いネクタイ姿。高山さんはダム湖ができれば水没する地区で生まれ育ち、今もそこで暮らす。
 喪服は抗議の意思表示だという。「土地収用手続きは、まるで国がピストルを突きつけ、出て行かないと引き金を引くと言っているようだ。思い出が詰まり、母親のように大事な故郷を捨てられない。だったら故郷とともに(私を)撃っちゃってくださいよ」。静かに語る高山さんの声が会場に響いた。
 八ッ場ダム本体工事は今年1月に始まった。それに先立って国道は閉鎖され、高山さんは大きく遠回りしなければ、ほかの地区に行けなくなった。「ピストルを突きつけ」られるとは、こうした追い立てるような進め方を指している。
 国交省は4月、土地の強制収用ができるよう太田昭宏国交相に申請した。これまでに事業予定地約301㌶の93%を取得済み。今回の手続きで、残っている民家や共有地の取得を目指す。公聴会に続いて第三者機関で収用の可否が検討される。認められれば群馬県の収用委員会で審理され、権利取得の裁決後に強制収用が可能になる。
 高山さんは降壇の間際に「十分の一も話せなかった」と語った。訴え切れなかった思いを会場外で聞いた。
 「国側は『早く代替地(の希望場所)を決めてくれ』と言ってくる。でも代替地の安全対策がどうなるかも、鉄鋼スラグがどれだけ使われたかも分からないじゃないですか。スラグから有害物質が出れば、下流住民に影響を与えかねない。これで安心して移れますか」
 高山さんの言う安全対策やスラグ問題とは何か。
 地質などの影響で、ダム湖予定地域周辺11カ所で地滑り対策が必要とされている。国交省は、水没予定地の住民が移る代替地五力所でも補強対策を検討するとしてきた。
 ところが、公聴会では、国交省・関東地方整備局の八ッ場ダムエ事事務所の担当者は「ボーリング調査の結果をみて、専門家の助言を得ながら対策の必要の有無や内容の検討・設計を行う」として具体策を示さなかった。
 ダム建設事業地内の各種工事では、鉄の精製時に出る砂利状の「鉄鋼スラグ」が、建設資材に混ぜるなどして使われたことが分かっている。国交省は昨年12月、住民の移転先など八力所で有害物質が検出されたと発表した。有害物質が含まれている鉄鋼スラブが、原因とみられる。
 今後の対応策について、工事事務所担当者は、公聴会で「群馬県が行っている廃棄物処理法に基づく調査結果を踏まえ、関係機関と連携し、適切に対応する」と述べるにとどまった。公聴会後、本紙が群馬県廃棄物・リサイクル課に取材したところ「法律違反や地下水への影響について調査中」との答えだった。


「建設目的が失われている」「ダムなくても流量維持、発電しても電力量増えず?」

 2日間の公聴会で計22組が意見を述べた。高山さんとは別の住民や下流自治体関係者がダムの早期完成を求める一方で、約半数の公述人は、地滑りの危険性や「ダム不要論」を訴えた。
 市民団体のメンバーは、八ッ場ダムの洪水調整機能は限定的で、終戦直後を除けば、利根川で堤防を越えるような洪水が発生していない点を指摘。関東地方の水使用量が減少していることも挙げ、ダムは不要で、土地収用の公益性もないと強調した。
 別の建設目的にも疑問が投げかけられた。
 国交省は、名勝・吾妻渓谷の景観維持などのために、毎秒二・四立方㍍の水が常時吾妻川に流れるようにすることもダムの建設目的としている。これに対し「水源開発問題全国連絡会」の嶋津暉之共同代表は公聴会で、ダムなしでも流量は維持できると主張した。
 東京電力・松谷発電所(東吾妻町)は、長野原取水堰(長野原町)から吾妻川の水を引くなどして発電している。この発電所は水利権更新を審査中で、更新後は国のガイドラインに沿い、川の流量を維持しなければならない。
 嶋津氏は情報公開請求で、東電が2013年に国交省に提出した資料「水利権期間更新申請における河川維持流量の再検討」を入手した。八ッ場ダム付近に毎秒約2.4立方㍍の水が流れるようにすると読める。この通りならダムがなくても流量は確保されることになる。
 発電もダムの目的の1つとしている。ダム直下には県営「八ツ場発電所」を新設する計画だ。
 ダムが建設されると、下流の流量が減るため、既存の水力発電には影響が出る。11年に関東地方整備局が出した「八ッ場ダム建設事業の検証に係る検討」によると、東電の水力発電所の発生電力量は、ダム建設前の計5億7,77万キロワット時から、完成後は5億6,100万キロワット時に減る。それでも八ッ場発電所の4,100万キロワット時が加わるため、全体では6億200万キロワット時に増えると試算している。
 八ッ場ダム工事事務所によると、この計算は、八ッ場発電所から下流の東電・原町発電所(東吾妻町)に導水施設をつくることを仮定して計算した。「できるだけ減電量を減らす(小さくする)方策」だという。
 これに関し、嶋津氏は公聴会で、情報公開請求で入手した群馬県の八ッ場発電所計画図には、導水施設がないことを指摘した。導水施設なしでは電力量が減る。発電目的のダムが全体の電力量を減らすという、おかしな結果を招きかねない。
 工事事務所は公聴会で、流量維持や発電の目的消失を認めなかった。東電の資料については「一概に事実かどうかというものではない」と内容確認を回避。導水施設についても「施設の有無を含めた具体的な計画については、今後関係者と調整を進める」と述べるにとどまった。
 どうも要領を得ない。本紙は公聴会後に工事事務所に取材したが「水利権更新申請にあたって提出資料を踏まえながら審査中」「(導水施設設置など)八ツ場ダム完成後の計画は定まっていない」としか答えなかった。
 東電にも確認してみた。担当者は、国交省への提出資料について「その時点での試算を示した。現在は内容を精査中だ」と工事事務所と同趣旨の説明をした。導水施設の設置の有無は「当社としては分かりかねる」、減電量の見通しについても「国交省と協議中で答えは控える」とした。
 嶋津氏は国などの対応に憤る。「指摘に正面から答えていない。具体的計画がない導水施設を用いて減電量を低くみせようとしている。もし導水施設を建設すれば数十億円はかかるだろう。こうした実態を説明せず土地収用手続きに入るのは許されない」

デスクメモ
 八ツ場ダム建設に伴う発掘調査では、寺院の本堂や庫裏、山門の跡とみられる遺跡が見つかっている。浅間山の天明大噴火で、火砕流が流れ込み、不動院の住職が山を駆け上って助かったという記録が残るという。古来、日本人は自然に畏敬の念を抱いてきた。ダム建設は、この思想と相いれないように思う。 (国)

書評『いいがかり』

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 ダムとは違う話です。
 生活経済政策研究所の機関誌『生活経済政策』に、書評を掲載していただきました。内容はこれまたダムとは関係ありませんが、鎌田慧、森まゆみ、花田達朗さんが編集代表となった『いいがかり: 原発「吉田調書」記事取り消し事件と朝日新聞の迷走』です。
 「気に入らない報道はつぶせばいい」という自民党の本音が垣間見えた、先日の自民党勉強会ですが、その兆しはここに既にあったのかなと思いました。例の問題発言は、原稿をお渡ししてからなので、ちょっと後知恵的な感想ですが、そんな風にも思いました。


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球磨川治水 9案協議へ

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球磨川治水 9案協議へ 対策協が会合
読売新聞・熊本版2015.7.8



 国が建設中止を決めた川辺川ダムに代わる球磨川の治水対策を検討する国、県、流域12市町村の「球磨川治水対策協議会」は7日、人吉市で2回目の会合を開いた。
 国土交通省九州地方整備局が3月の初会合で示した九つの検討案を協議する方針を決めた。
 九地整が提示した検討案は▽川の断面積を大きくして、流下能力を上げる河道掘削▽洪水の一部を直接、海など別の場所に流せるようにする放水路の整備▽宅地の周囲を堤防で囲む輪中堤(わじゅうてい)の整備―――など。
 協議会では今後、各案の治水効果や費用、実現性、環境への影響などの観点から総合的に評価する。島崎征夫・県企画振興部長は「今後は(案の中身について)具体的に検討を進めていきたい」と話した。
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